無意識の意識化


私は版画の作家であるが、その作品は一見写真のように見える。近づいて見ると画面に円形や雫状の線や曲線などが無数に入っていて、独特の質感と透明感があり、絵画のようにも見える。見る角度によって表情が異なり、立体的に見えることがあれば、焦点が合わないこともある。作品の表面は平滑で、額装というごく普通の展示形態をとった作品は、窓からの風景やモニターに映し出された映像にも見える。これらの効果は、あくまでも自然な形で目に映るように、様々な技法を組み合わせて意図的に作り出している。

 

 


そして、額装した作品を一列に並べるありきたりの展示の中に違和感を垣間見せる。では、その違和感はどこから来るのか?それは、私の作品が、「版画 でもあり、絵画でもあり、写真でもあり、映像でもある」という、ジャンル分けが出来ない形で呈示されているからである。このような作品は、「版画でもなく、絵画でもなく、写真でもなく、映像でもない」と、捉えようのないモノとして見てしまう。これは、「平面のアート」というキーワードを元に、無意識にジャンル分けをしているからである。

 


この無意識の判断や行動は誰かの言葉や自身の思い込みに影響されている事が多く、自身でそれに気付く事は難しいが、私の作品は、この無意識の意識化を明らかにする。

 


写真と木版拓刷り(※版画では拓本のことを拓刷りという)


インターネット時代における「写真/画像データ」は、トリミングされた時間・空間・対象が大量生産されたイメージであり、自己中心的な表現でもあり、繋がりを求める手段でもある。

しかし私にとって「写真/印刷された画像」は、感覚の物質化である。重要なことは、流れる時間や移り変わる光、感じた温度や湿度そのものであり、「ひととき」である。「ひととき」とは、その場で体感しうるあらゆる感覚であり、私はカメラを用いてそれらの感覚を「写真/画像データ」と「映像/動画」で記録し、紙へ印刷し物質化する。また、紙へ印刷された画像の形式が写真であっても、それは映像のひと場面として捉えている。

 


 

木版拓刷りは、生きて来た証と痕跡の対話と記録である。

彫刻刀を用いて自身の手で木を彫る行為は身体感覚を要し、版木に自身の生きている証を刻むような艶かしさがある。彫刻刀の重さを意識し、木肌に触れ、彫るたびに全神経を集中させ、全身に力が入る。木を刃物で彫る振動を手で感じ、彫る音を聴く。また、こういった身体感覚は、動植物や山や川、海などの自然と向き合った時の感覚に近く、時間が経って忘れそうな「ひととき」を思い返す行為でもある。

 


 

拓刷りは、バレンの刷りとは異なり、彫りという行為の痕跡ひとつひとつをなぞるような圧倒的な生々しさがある。

それは、複数性を重視した刷りとは異なり、拓本が人の手によって木や石・石碑・金属器へ刻まれた文字や模様の凹凸を、丁寧に写し取りながら対話を行い、「人が生きて来た証」を記録するメディアだからだ。

 

ゆえに私は木版拓刷りを用いて、自身の「生」と対話し、記録を行っていると言える。

 



技法について


 

作品は古典、伝統、現代の技法や技術を用いて制作している。

デジタルカメラで写真/画像データと映像/動画で撮影し、PCで編集した写真をインクジェット・プリント用の和紙に印刷する。彫刻刀を用いて自身の手で彫った木版を拓本した雁皮紙2枚をこの和紙へ裏打ちをし、乾燥後に蝋引きをし、半透明になった紙にパステルを用いて階調を整え、浮世絵版画や京唐紙から着想を得た雲母で光を表現している。

 

1枚に見える紙は、複数のレイヤーで構築させ、古典から現代をまたぐ技法と技術の融合は、これからの社会の在り方を示している。